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旅立った父、受け継がれたこと

  • 執筆者の写真: gen taneichi
    gen taneichi
  • 5月17日
  • 読了時間: 4分

極めて社会的に逸脱したタイミングで、ノリノリになってる僕を見た人から「お父さんにそっくりだね」とよく言われ、なんだか嫌な思いをしたものですが。


そんな僕の“素”とも言うべき父が、2025年3月、享年80歳でこの世を旅立ちました。


ここ数年、認知症などを患いあまり芳しくない状態が続いていたため、多少の覚悟はしていたものの——

前日まで冗談を言っていたらしく、この先の介護生活に、明るい未来さえ感じていた矢先の出来事で、頭が追いつきませんでした。

あれよあれよと時は過ぎ、49日を終え、ようやくひと段落致しました。


心配だった残された母が、父が亡くなった当日から氣丈に自己のタスクを淡々とこなし、今も忙しくしているのは幸いです。



父は1944年、一卵性双生児の弟として東京都に生まれました。

作曲家でテナーサックス奏者の父親と、舞踊家で俳優の母親の間に生まれ、音楽と芸事の溢れる家庭環境で育ちました。

(この時点で既に僕と同じような境遇ですが。)


いわゆる家族バンドができるような世帯で、幼少期の父はビブラフォンとコントラバスを担当。

中学生の頃には、父親のバンドのベース奏者として、キャバレー周りをしていたそうです。


後に服飾デザイナーを志し、桑沢デザイン研究所に入学するも、卒業後は再び音楽の道へ。

菅野邦彦氏や鈴木勲氏とともに、ジャズベーシストとして活動するようになります。


1970年、自由が丘のファイブスポットで演奏していた父と、それを聴きに来ていた母が出逢い、そこから僕へとつながっていきます。



1973年、僕が生まれる少し前。父は20代後半。

ここから、いかにも実に“僕の父らしい”方向転換を繰り広げます。


母親譲りの芸人魂が抑えきれなくなり、ジャズメンという枠を飛び出し、

双子の兄とともに「チャーリー&マッシー」という双生児ユニットで歌手活動をスタートさせます。

双子の兄であるクラシック畑のマッシーがピアノ&ボーカルで、弟のチャーリー(父)がコントラバスを弾きながらメインボーカルを務めるというスタイルでした。


「ジャズとクラシックを基盤とした双子に演歌を歌わせる」というビクターのぶっ飛んだ企画モノは50年早かったと賛否もありますが、このくらいの振り切ったテンションで表現する”芸能 ”の世界にこそ、父の本領が存分に発揮されていたのだと

改めて痛感します。


純粋な音楽愛と音楽的素養に加え、人前で自身をこれでもかと表現する”フロントマン精神”。

これこそが、僕が父から受け継いだ最大の財産であると、自負しています。



すぐ怒り、すぐ涙する。

喜怒哀楽の塊。

「これほど純粋な人はいない」──そんなふうに父を評する声を、よく耳にしました。

それは好意的に解釈した場合で、まあ要するに、自己中心的で自我を抑えられない、生涯、筋金入りの偏屈者でもありました。


でも、そんな父が40代を過ぎた頃、家計の安定を危惧し、音楽とは無縁の世界で働いてくれたりもしました。

つまり僕や母を養うために「皆と足並みを揃えて自己中ではいられない」不慣れな未知の世界に身を投じてくれたわけで、そこには感謝しかありません。


父の根っこにあるのは、いつだって真っ当な愛だったことを今、認めます。

怒りや嫌悪にも真正面からぶつかり、本音を口にするその姿勢は、僕にはできない、ある意味 ”高次な生き方” だったのかなとも思います。



「この世に善いも悪いもないんだよ」

——僕がまだ小さかった頃、

父が何げなく放った言葉

 知らぬ間に僕の深層意識に深く刻まれ、今世で生きる上での観念になっています。

 そして、あらゆる常識の枠から飛び出すことができる僕のポテンシャルは、この言葉の残響にブーストされているのかもしれません。



最後に、父へ。


そっちの世界では、もう我慢しなくていいから、もっと無邪氣に、もっと自由に、もっとありのままに、

歌って、笑って、ノリノリで、

魂を炸裂させてください。


お父さん、ありがとう。



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